牧師の自殺問題を取り上げる社会的な意義とは…… - 引退牧師の娘日記

私が、牧師の自殺問題について発信するのは、牧師の自殺という行為が社会的な意味合いを持っているからです。

まず、自殺という行為が社会的に自殺だとされるためには、警察あるいは医師による判断が必要です。その意味において、自殺は社会的行為です。

そして、牧師の自殺は、その影響が、自殺した本人だけに留まる問題ではありません。自死遺族だけではなく、多くの人を悲しませることになります。

牧師が自殺したとしても、教会や信徒には関係がなく個人の問題だと捉える方もおられるのだと思います。

しかし、私が牧師の自殺問題を組織で(社会的に)取り組まなければならないと主張するのは、牧師が自殺することが、牧師家族や信徒に対する自殺への敷居を下げることになると危惧しているからです。

もし、家族である牧師、洗礼や影響を受けた牧師が自殺をして、その人が自殺してしまいたいほどの苦しみの中に生きていた場合、どうなるでしょう。「牧師が自殺をしているのだから、私が自殺したとしても、神様は分かってくれるはずだ」と自殺への敷居を下げてしまう場合もあると思います。

ですので、牧師の命を守ることは、牧師家族の命を守ること、信徒の命を守ることにつながるのだと思います。

教会がするべきなのは、牧師の自殺をどうにもできない問題、個人の問題、隠すべき問題だと放置して、教会関係者の自殺への敷居を下げることではなく、現実と向き合うことです。(そして、何の役にも立たない変なプライドを捨てて教会の外にいる人が教会を訪れることができるように敷居を下げることです。)

牧師の自殺問題は、本当にどうにもできない問題なのでしょうか。どうにもできないと嘆く前に、できることがあるんじゃないかと個人的には思っています。私には、賢い方法が思いつかないのですが、とにかく牧師の自殺問題を抱えた教会で育った者として、発信、問題提起をすることにしています。

そして、教界関係者の方にお願いしたいのは、自殺の背景になっている可能性がある牧師や牧師家族が苦しんでいる現状に対して、他人事、自分とは関係のない団体、教会の問題あるいは特殊な問題、例外として捉えるのではなく、もしかしたら、自分と関係のある団体、教会の問題なのかもしれないと想像して自分自身の問題として捉えて欲しいのです。

追記

(この文章は日本基督教団の総幹事であった高倉徹牧師の自殺を念頭に置いて書いた文章です。)